バジュランギおじさんが教える宗教より大事なもの
先日、公開中のインド映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を観ました。
久々にインド映画を観て、「歌って踊って大団円」という基本は踏襲しつつ、福祉的なテーマがあると感じさせられました。
僕が住んでいる日本では、宗教を身近に感じることはできません。そんな宗教をテーマにしつつも、僕に伝わるメッセージがあるのは何故でしょうか。
これは、映画のレビューではないので、ネタバレが少しあります。ご了承ください。
あらすじ
パキスタンの小さな村に住む女の子シャヒーダー。幼い頃から声が出せない彼女を心配したお母さんと一緒に、インドのイスラム寺院に願掛けに行くが、帰り道で一人インドに取り残されてしまう。
そんなシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者のパワンだった。これも、ハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることにしたパワンだったが、ある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と分かって驚愕する。歴史、宗教、経済など様々な面で激しく対立するインドとパキスタン。それでもパスポートもビザもなしに、国境を越えてシャヒーダーを家に送り届けることを決意したパワン。
国境では警備隊に捕まり、パキスタン国内ではスパイに間違われて警察に追われる波乱万丈の二人旅が始まった。果たしてパワンは無事にシャヒーダーを母親の元へ送り届けることができるのか?そこには、思いもよらなかった奇跡が待っていた…
・宗教が異なる、というだけ
ここで印象的なのが、バジェランギは熱心なヒンドゥー教の信者。一方のシャヒーダーはイスラム教徒。鶏肉を食べないバジェランギにとって、受け入れがたい事実であることは想像に易いです。
信じるものの存在が異なる場合、どれほどの差があるのか、無宗教の僕には分かり兼ねますが、少なくとも葛藤があることは理解できます。
自分が信じ、信条としてきた教えを行わない人もいると理解していても、自分とは違う存在だと思うはずです。
現に、バジェランギの奥さんの父親(嫌な人)は家からシャヒーダーを追い出すように命じます。これは過去に先祖が殺されている苦悩を伴ったものでした。
しかし、バジェランギの奥さん、ラスィカーはサムネイルにもあるように迷うバジェランギを「異教徒だの何だのとバカなことを気にしないで」とシャヒーダーを連れて帰るように言います。
宗派が違うこと以前に、一人の女子を救うという絶対的な意志が優先された瞬間であり、宗教以前に人間のあり方を見た気がしました。
・心の支えであり、目的ではない
宗教が異なるだけだと認識したバジェランギは、パキスタンへシャヒーダーを送り届けます。その際、インドとパキスタンの国交の関係でビザがおりません。最終的に密入国を決意しますが、良くも悪くも筋が通りまくっています。
密入国を咎められても、秘密のルートを警察に喋ってしまうバジェランギ。なんなら密入国の協力者の名前まで教えてしまうバジェランギ。警察が「見て見ぬ振りをしてあげる」と言ってくれているのに、許可が出ないと行かないというバジェランギ。6歳のシャヒーダーでさえ呆れまくっています。
しかし、これはヒンドゥー教ハヌマーン様の前で嘘は決してつかないと決意したから故であり(少し良い人が過ぎますが)、言うなれば「正々堂々とした密入国」という矛盾を突破しようとしていました。
心の礎として、支えとして、あくまで宗教に則って行動していることがわかります。
・「何をするか」ではなく「何でするか」
映画を通して思ったのは、やっていることは善悪が入り乱れているように思います。
迷子を届けるのは良いことだが、密入国はどうなのでしょうか。
シャヒーダーが売春されそうになり、止めたのは良いが、ほとんど半殺しにしてしまいました。
協力者である記者に嘘をつかせ、自分はセーフだと言い張ること。
これらは一見、矛盾を孕んでいますが、僕は人間はそれで良いと思います。
物事の善悪は見方で変わるものです。
例えば、桃太郎は町民を困らせていた鬼を討伐していますが、鬼の家族はもしかしたら被害者なのかもしれないのです。
これくらい、善悪とは曖昧なものだと思います。
自分の信じられるものを持ち、その意志で何かを全うできることは、難しいことであり、羨ましいことなのかもしれません。バジェランギおじさん、強くて踊れて素敵でした。
今週の一曲
キリンジ/エイリアンズ
(from INO)
1992年生まれ、東京都在住。社会福祉学、統計学を専門とする。世の中の事象を社会福祉の目線から観察し、社会に貢献する機会と転職の機会と貯金の機会を伺っている。最近は整体がめちゃくちゃ好き。
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